成田の歴史
「成田」が文献に出てくるのは、940(天慶3)年です。平将門の乱を鎮めた際に新勝寺を創建したとある成田山新勝寺の縁起に書かれています。以来、成田の歴史は新勝寺なくしては語れないほどになっていきます。江戸時代中頃には、新勝寺の門前町として発展を遂げ、幕末期には旅籠32件を要する一大宿場町となっていきました。
また、成田にはもう1つの信仰の対象となる寺があります。それが、宗吾霊廟と言われる東勝寺です。この寺には、義民・佐倉惣五郎が祀られています。惣五郎は、佐倉藩主・堀田正信の悪政を江戸の将軍に直訴し、訴えは聞き届けられたものの死罪にされた人物です。この行動が義民として、民衆の尊敬を集め、宗吾霊廟が作られたのです。
新勝寺と宗吾霊廟への参詣者は多く、江戸と成田を結ぶ成田街道の整備も後押しし、成田は江戸時代には信仰の都市として多くの人々が集ったのです。
また成田周辺は青草がよく生えていたことから、江戸時代には馬の放牧・生産が幕府によって行われていました。明治時代になると、このうち、三里塚地区にあった牧場を皇室が使用する御料牧場として、引き続き馬の生産を行っていきます。昭和に入ると、サラブレッドの生産も行われ、1932年に日本ダービーの前身である東京優駿大競走を制したワカタカなどの名馬を産みました。
この下総御料牧場が再び注目されたのは、1966年(昭和41)年に新東京国際空港(現・成田国際空港)を牧場と周囲の県有地に建設することが決まった時でした。牧場は栃木県高根沢町への移転が決まります。一方、建設が決まった新東京国際空港ですが、根強い建設反対派もいましたが、1978年に開港しました。日本と世界を結ぶ国際空港として役割を果たしています。
近年では、羽田空港に国際線が乗り入れてくるなど、首都圏の国際空港としての地位が揺らいでいますが、一方でLCCが就航する首都圏の空港としての存在感を増しています。空の旅の変化に応じて、成田空港の役割も変わってきています。
成田は、歴史上長く田園都市であり、信仰の都市でした。そこに、成田国際空港が生まれて新たに国際都市、先進都市としての側面が加わりました。成田は、新旧がバランスよく存在する魅力的な都市として、今に歴史を刻み続けています。